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長い目で見た生活を

 本日はお参りありがとうございます。どうぞ、足は楽になさって下さい。ここから見てますと、足を痛そうにしている方が見えるので…(一同笑)。


 さて、今から740年前、当時天台宗のお寺が、日蓮聖人から「法福寺」の名前を頂き、新たな一歩を踏み出します。 開山会とは、その―日蓮聖人が法福寺を開かれたこと―への報恩感謝の気持ちを表すお参りなのです。


 地区懇談会で「日蓮聖人はどういう方だったのか」という質問がありました。いまから簡単にご説明申し上げますので、既にご存知の方は復習のつもりでお聞き下さい。

 日蓮聖人は、1222年、小湊でお生まれになられます。近くの清澄寺へ12歳で上がり、勉学にいそしみました。16歳で出家。

 比叡山など多くのお寺で修行をされ、「お釈迦様の教えで最も尊いのは法華経である」と確信を得、清澄寺へ戻ります。御歳32歳のことでした。その4月28日、旭が森で初めて「南無妙法蓮華経」とお唱えになられます。布教を致しますが、当時は他の教えが全盛で、結果、清澄にはいられなくなりました。

 都である鎌倉へ行き「南無妙法蓮華経じゃなければダメなんだ」と辻説法を行いますが、ここでも迫害を受けます。お住まいを焼き討ちにあったり、伊豆へ島流しにされたり、といった具合です。とうとう龍ノ口で首を切られそうになりますが、大きな光に助けられ、厚木の本間さん宅に一ヶ月ほど滞在しました。

 その後、佐渡への流罪が決まり、現在の国道17号線より少し長野寄りの道を経て 碓氷峠を越え、直江津に出て 海岸沿いを通ってまいります。そして、寺泊へと到着したのですが、風待ちのため、七日間滞在しました。―関東の方ですと、風待ちというと風が吹くのを待つと思われがちですが、そうではありません。新暦の11月頃のため、大変海が荒れており、風が治まるのをお待ちになられたのです―。

 その滞在中、天台宗寺院であった当山の時の住職が日蓮聖人にお会いし、「日蓮聖人の仰ることはもっともだ」と心服し、改宗します。お寺に「法福寺」―さきほども申し上げましたが―、御住職に「日伝」というお名前をそれぞれ頂戴し、現在に至っております。

 寺泊にいらっしゃったのは、御歳50歳のことです。いまならば青年の年ですが、当時は違いました。そのような状況で佐渡へ渡った日蓮聖人、滞在は足かけ4年に及びます。当初は塚原という焼き場で一間四面の庵…とは言っても穴だらけで、「天上から空が見えて雪が降ってくる」と御遺文に書かれたほどのもの…にお住まいになられました。

 御歳54歳、赦されまして鎌倉へ行くのですが、幕府は日蓮聖人の主張を聞き入れません。「三回言っても聞き入れられない時は山に入れ」という故事に従い、御信者さんである波木井さんの領地身延へお住まいになられます。

 それから9年ほど経った頃、大分体調がよくなく、日立へ湯治に行くことになりました。その途中、池上の地で6人のお弟子さんを決め、10月13日お亡くなりになられたのです。

 池上で火葬にしますが、「どこで死んでもお墓は身延に建てて下さい。私の魂は未来永劫そこに住みます」というお言葉に従い、身延へ埋葬されました。

 現在、お墓―御廟所(ごびょうしょ)といいますが―それとは別に、御真骨堂というお堂に お骨のほとんどが 安置されております。「どうして二カ所に分けるのか」聞いたところ、「現在、御廟所は人がいるところからは遠く、お骨が盗まれる可能性があります。なので、普段多くの人が出入りするところ(御真骨堂)に安置しているのです」とのことでした。

 このように身延山は日蓮聖人の魂がお住まいになっているところですので、「身延山へお参りする」ということは、イコール「日蓮聖人に会いに行く」という大切な意味を持ちます。皆さんにも 身延山にお参りに行く時は このような心持ちでお参り頂き、日蓮聖人の魂に触れて頂きたいものです。

 どうか、今日は感謝の気持ちでお参りして下さい。


 話は変わりますが、3月11日の地震以来、良くなるどころかだんだん悪くなってようにすら感じます。「被災者方々は、よく我慢されているな」という思いで一杯です。辛い思いをされている方はたくさんいることでしょう。今、我々が如何に恵まれているか 感じなければなりません。


 日蓮宗の僧侶で、この震災が原因で苦しんでいる人から相談を受けている方がおります。その相談内容の一部を紹介します。

 ケース1.夜眠れなくて困るBさん(36)。Bさん夫婦と長男そして足の不自由な姑と4人で暮らしていた。あの日、津波警報が出て避難を余儀なくされたが、「私も連れて行って」という姑を、「ごめん、連れて行かれないの」と置いてけぼりにしてしまった。「神も仏もないのか」と言った姑の最後の言葉が耳をはなれない。私は姑を見殺しにしてしまった。一体、どうしたらいいのか。

…同様なことがいくらでも起きたであろうことは想像に難くありません。もし、自分だったら、と思うとやるせない気持ちになります。

 ケース2.仙台に住むCさん(35)。7人家族のうち、5人がまだ行方不明。見つかるよう祈っているが、ただ泣くしかない。

…今私たちが無事にいることが如何に幸せか。感謝して暮らすことが大切なのです。


 そんな中、ボランティアで活躍している方がたくさんいらっしゃいます。

 納棺師(70)もその一人です。すでに一線を退いていたが、「自分に何ができるか」考えた結果、納棺の手伝いや遺体の取扱方を指導するようになりました。

 彼は、ただ棺に納めるだけではなく、声を掛けるようにしています。ある子どもさんの例です。「今日中にお骨になってお父さんお母さんのところへ帰れるよ。寒かっただろうね。これからは温かいお母さんの手料理を供えてもらえるよ。」。

 まさにこれこそ佛の姿であります。言うは易く行うは難しで、なかなかできないことです。こういう方の存在を知ると、もっともっと感謝して生きていかなければならないと感じます。


 原発。非常におっかない。一番おっかないのはチェルノブイリの結果―25年前のことだというのに―30km圏内は立ち入り禁止、コンクリートで作った「石棺」が老朽化しており 修理の必要があるが 資金がない。そんなチェルノブイリを上回る炉数の福島。

 新聞では報道されません―今回の法話も、大分週刊誌から情報を仕入れましたが―。政府が「不安を与えないため」と考えるからでしょうか。「直ちに健康に影響はありません」と言いますが、私たちは、5年後、10年後のことを心配しているのです。

 水素爆発の際、放射性物質がばらまかれたわけですが、当然、吸い込んでしまった方もたくさんいることでしょう。すると、体内から被爆するようになってしまいます。これを「内部被爆」と言います。被災地へ ちょっと立ち寄っただけの人への検査を要する場合が増えているそうです。では、ずーっといる人はどうなるのでしょう。なぜ政府はもっと早く発表しないのか。

 チェルノブイリでは甲状腺ガンに罹る子どもが多く出ました。甲状腺ガンといえば、ヨウ素剤が予防に有効―放射線を出すヨウ素が甲状腺に止(とど)まる前に、その居場所をヨウ素剤で占領してしまおうというもの―です。

 今回、「ベクレル」「シーベルト」という聞き慣れない言葉(単位)を幾度も耳にするようになりました。「ベクレル」は出す物質の強さ・威力、「シーベルト」は浴びたらどうなるか・被爆量と考えるといいでしょう。

 新潟では、平時0.031〜0.153μシーベルトだそうです。ご承知の通り、法福寺の境内には保育園もあり、園児の健康被害が心配だったので、機械で計測してみました。0.1μシーベルトでした。震災以後、外遊びを取りやめていたのですが、この結果を見て、再開しました。


 この度の原発騒動は、人間の思い上がりが原因ではないでしょうか。「安全」と言われ、受け入れた地元。仕事、家を得ることができ、住み慣れた土地を離れなくて良くなった。「良かった、良かった」と喜んで40年。確かに、良かった。が、今後は、その数倍以上の年月、苦労を受け入れなければならない。人間が考えた約束(想定)の範囲での「安全」だったのではないでしょうか。

 豊かになりたいと思うのが人間です。そして、それには限度がありません。だから、自分自身を引き締めなければならないのです。


 先ほどお唱えしました妙法蓮華経如来寿量品には「佛様は、亡くなったように見えるが、ちゃんと存在して、教えを説いていてくれる」とあります。正しいもののとらえ方を身につける―これが信仰です。それを身につけ、社会を良くしていくのです。


 日蓮聖人の時代、飢饉、台風、地震などが重なり、みんなが困った。その原因をお経に求めたのが日蓮聖人です。正しい教えに従って生活しないから天の戒めによって災害が起きたと、考えたのです(―同じようなことを今回言った著名人がいましたが、決して東北の方々がいけない、というのではありません。日本全体への戒めが東北に現れた と考えた方が良いでしょう)。そして、それを直すにはどうしたらいいのか、考えた結果をまとめたのが『立正安国論』です。正しく考えて生活をしなさい、と訴えております。


 その場の欲だけで考えるからおかしくなる。ただ「儲かるから」ではなく、長い目で見なさい―これがお釈迦様の教えなのです。


 これからもそのようなことを念頭に置いてお暮らしになることをお願いし、法話と致します。ご聴聞おつかれさまでした。
平成23(2011)年開山会法話より

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