|TOP|
教え 目次
前ページ
法華経のありがたさ…そのうちのほんの一つ…

(今回は、当日お話しした内容に比べ、一部省略があります。)

 ○○さんというキリスト教信者がおります。(中略)彼は、自身のサイト(中略)で次のように述べています。(引用省略)
 …と言った具合です。お寺の本堂で、聖書の一節を読んでもいいか迷いましたが…(苦笑)。なかなか佛教徒としては「どきっ」とするようなことが書いてあります。「ほんとかいな」と疑りたくなります。結論から申しますと、「本当…(間)…ただし、正確ではない」となります。

 正直、私はこのホームページを見て、
「婦女子は今日に至るまで五種の地位を得たことはない」
「佛国土に(中略)婦女子はいない」
これらのことがお経…しかも法華経…に書いてあると初めて知りました。詳細がわからなので、思い切って、○○氏に問い合わせました。ありがたいことにわずか5時間後に回答を頂きました。彼が言うとおり、確かに法華経にそう、書いてありました。わからなかったのは私自身の不勉強によるものですから、そこは反省し、良い機会を与えて下さった、○○氏には感謝致しております。

 はたして、彼の主張は正しいのでしょうか。

 「女性は、梵天王になることはできない。帝釈天になることはできない。魔王になることはできない。転輪聖王になることはできない。そして仏になることはできない」。
どこかで聞いたことありますでしょうか。そう、提婆達多品第十二の一節です。ここのちょっと前に
「婦女子は今日に至るまで五種の地位を得たことはない」
もありました(岩波文庫『法華経』中巻P.223)。

 ここでの主な登場人物…と申せばいいでしょうか…は、文殊菩薩、龍女、智積菩薩、舎利弗です。お釈迦様も登場はするのですが、一言もお言葉は発しません。他にも数千という人々がいるのですがお釈迦様同様、セリフはありません。

 話しは、提婆達多品の途中、文殊菩薩が「私は海の中で多くの人々に法華経を説いてきた」と仰ったことへの智積菩薩の質問から、になります。なお、言葉は、私の意訳です。

智積菩薩「この経典を崇め尊び、さとりに達した者はいるのですか」
文殊菩薩「はい、います。龍の王様の娘で、年は8歳。瞑想を一瞬で達成し、彼女は完全なさとりを得る能力を持っています」
この回答を聞いて、智積菩薩が言います。
智積菩薩「お釈迦様がさとりをお開きになられたとき、とても長い時間がかかった。龍王の娘が一瞬で悟れた、など到底信じられない」
そこに、当の娘が登場し、こう言います。
龍王の娘「私は、さとりを達成した。苦悩から逃れられる教えを、示しましょう」
それに、舎利弗が反論します。
舎利弗「良家の娘よ、あなたが、さとりに近づこうと努力していても、それはなかなか得られるものではない。女性が、いくら努力しても、今日までにだれも佛になっていない。それはなぜか。女性が、梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王、佛の地位を得たものがいないからだ。」

 今までいなかったからこれまでもいないとは限らないのですが、まぁ、ここではそういう論調で、女性を差別しております。また、漢文ですと、「女性の身は汚れていて、佛のありがたい教えが入る器ではない」とも書いてあります。とても無茶苦茶な話しですが、もうみなさまお気づきでしょう。

  そう、○○氏が根拠にしたところは、舎利弗のセリフなのです。「シャカは言いました。」とありますが、それは間違いなのです。とは申せ、お釈迦様が舎利弗の言ったことを支持すれば、結果は同じです。

 ですが、この後、龍王の娘は、ほんの一瞬の間に、男性となり、さとりを得て、人々に教えを説きます。その様子を見て、智積菩薩と舎利弗は、沈黙します。
…ぐうの音も出なかった、のです。

 つまり、舎利弗の主張は間違いであり、そのことに、智積菩薩も舎利弗も納得したのです。法華経の、この部分の教えは、「女性差別は間違っている」ということなのです。

(中略)

 早速の回答を頂いたのち、このことを指摘しましたが、残念ながら、今朝現在、先ほど申したホームページが書き換わっている様子はありません。私の意見にも返事は頂けませんでした。ただ、他の方の質問には懇切に答えてられるむきもありますので、決して誠意のない方だとは思いません。信じるものはちがっても信仰を持つ者同士として、一目置きたいと思っております。問題は、○○氏ではなく、○○氏の主張なのですから。

 話しを戻します。確かに、七面山は、かつては女人禁制で、それを解いたのが徳川家康側室の養珠院お萬の方だ、と言う話しは有名です。歴史的には、日蓮宗に限らず、日本の佛教でも女性を布教の対象としてこなかった面もあります(もちろん、そうじゃない面もあります)。「女人は地獄の使なり。能く佛の種子を絶つ。外面は菩薩に似て内心は夜叉の如し」というお経もあるそうそうです。

 残念ながら、女性を差別する経典も存在するようですが、法華経は違います。「佛教VSキリスト教」という区分けだと、話しがややこしくなってしまうところは、この辺りが原因なようです。

 ではありますが、むしろ、日蓮聖人のみならず、道元さんや法然さん親鸞さんなども女人禁制には批判的でした。
 特に、日蓮聖人は、法華経が他のお経より優れている理由の一つに、この女人成佛があるからこそ、とされたくらいです。

 先ほど拝読致しました、日蓮聖人の御文書『開目抄』には、「龍女が成佛此れ一人にはあらず、一切の女人の成佛をあらはす」(定五八九頁)とおおせです。龍女だけがたまたま成佛したのではなく、女性ならば誰でも成佛することができるのだ、と仰っているのです。

 さて、ここまでお話し申し上げて、まだなにか引っかかるものがある方もいらっしゃるかと存じます。

 そう、「男性になって」というところです。

 佛教を研究する人の間でも分かれるところですが、簡単に言うと、「『変成男子』が先か『成佛』先か」という話しです。

 私は、成佛→変成男子だと確信しております。確かに、経典後半部分は「変成男子→成佛」です。しかし、変成男子のずっと前、そもそもを思い出して下さい。文殊菩薩が龍女を紹介したのは、智積菩薩の「誰か、悟りを開いた方はいらっしゃいますか」という質問へ答えるためでした。すなわち、「成佛していて、その神通力を用いて、男性に変身した」と考える方が、自然です。

 では、「なぜ男子に変身したか」という疑問がわくでしょう。

 みなさんがもし龍女なら、「女性は成佛できない」と頑なに主張する舎利弗を、どう説得しますか。言葉でしょうか。
 龍女のように、佛の神通力を以て、男子に変身してしまえば、「男だから」とか「女だから」とか言うことが如何に無意味か、伝えやすいのではないでしょうか。

 このお経から私たちが学びたいことは、「男女の区別はあっても差別はしてはならない」ですが、同時に、「人を説得させようとしたら、相手のことをよく考えて、相手の立場に立ってするのが、一番」と言うことではないでしょうか。

 …最も、私はそれができないから、先ほどの○○氏に対応してもらえないのですが…。

(以下略)

参考文献など
坂本幸男・岩本裕訳『法華経(中)』岩波書店、1964、ISBN 4-00-333042-0
植木雅俊訳『法華経(下)』岩波書店、2008、ISBN 978-4-00-024763-4
ウィキペディア女人禁制(2013年3月18日アクセス)
平成25(2013)年春季彼岸会法話より

次ページ
教え 目次
|TOP|