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お釈迦様の教え、日蓮聖人の教え(2006年以前)

日蓮宗新潟県西部宗務所所報『佛心伝心』のシリーズ「法の燈」より、副住職が担当した文章を若干書き換えたもの
第3号:「お子さん、お孫さんのより豊かな生活のために」

寺報『石蕗(つわぶき)』のシリーズ「お釈迦様の教え、日蓮聖人の教え」より
第7号:「『立正安国論』概略」
第6号:「お題目とは何か」
第5号:「法華経について」
第4号:「今を大切に」
第3号:「お釈迦様がさとられた内容」
第2号:「日蓮聖人の生涯」
創刊号:「お釈迦様の生涯」



お子さん、お孫さんのより豊かな生活のために



 あなたのお子さん、お孫さんは、「ウチのお寺は日蓮宗」と御存知ですか。
 お盆休みの帰省にも関わらず、お墓参りに行く人は半数弱とか。いったいなぜそうなってしまったのでしょうか。

−−戦後60年を振り返って−−
 終戦以来、先輩諸氏(筆者は三十代です)は「今日食べるもの」に苦労し、「物やお金の豊かさが幸せにつながる」と信じて日々努力されてきたと聞きます。そして今、おかげさまでとても便利な生活ができるようになりました。なんといっても、毎日の食べ物に困らない日本にして頂けたのを、なによりも感謝しています。
 ところで、「衣食足りて礼節を知る」と言いますが、果たしてそうなりましたでしょうか。新聞などの報道で殺人事件を扱わない日はありません。物質的に豊かな世の中になりましたが、幸せな世の中になったかというと…。お子さん、お孫さんの将来は、安心して暮らせる社会であり続けられるのでしょうか。

−−楽観できない将来−−
 40歳前後のサラリーマンの平均月給は、この10年で4万円しか上昇しません。働けるのは良い方で、働きたいのに働けない人は、相変わらずたくさんいます。
 以下、15〜34歳の若者についてです。失業者、短期アルバイトなどをして暮らす「フリーター」、学校にも通わず・働きもせず・働くための訓練もしない独身者「ニート」を合わせると約430万人もいます。
 追い打ちをかけるように、年金も十分にもらえません。男性で43歳以下、女性で38歳以下の人は、65歳になるまで年金の支給はありません。(年齢は平成17年3月31日現在)
 成果主義(「結果がすべて」という考え方)が一般的になれば、長く会社に勤めただけでは、たくさん給料はもらえません。「衣食足りても礼節知らず」の社会から、その「衣食」すら足りない社会へと変わっていくことが十分考えられるのです。

−−「物」から「心」への転換を−−
 先ほどのサラリーマン月給の参考にした文章は、最後に次のように問うています。「人生の幸福とは何か。所得の増加か、資産の蓄積か、それとも『マネー』ではない何か──なのか。」
 江戸期の近江商人、中村治兵衛の孫に残した書き置きと、ちまたをさわがせている鉄道会社の創業家の「家憲」を比較した、新聞記事がありました。そのまとめは次のようです。「中村治兵衛の書き置きには『仏神の事、常々信心に致され候て』ともあった。人の道を見失うことなく、神仏に恥じぬ行いを求める呼びかけである。人が子孫に残すべき本当の富とは何か。改めて思いをめぐらしたい。」
 日を空けず、似たような訴えが新聞で繰り返されるのは、「物を豊かにしたい時代」から「心を豊かにしたい時代」への転換が求められているからではないでしょうか。そして、そのためには信仰が大切なのです。

−−時代は いま お題目−−
 日蓮聖人は
 「蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。」
(お金よりも体、体よりも心だよ)と仰っております。今から700年以上も前のお言葉ですが、現代に通じるものと納得頂けることでしょう。
 仏縁をいただき、私たちは日々お題目を唱え、心を大切に仏道修行に励んでいます。それにやっと社会が追いついてきたのです。今こそ、お題目の時代なのです。

−− 「小美」ノススメ−−
 物やお金の相続だけでなく信仰の相続をお願いしたいのです。信仰の生前贈与なんてすてきではありませんか。
  「しつけ」という字は「身美」と書きます。字面では「体が美しい」ということになりますが、「心が美しい」という意味で「小美」と書きたい…このような文字はないのですが…ものです。人の気持ちのわかる、「小美」られたお子さん、お孫さんになりますように…。

参考文献など
 毎日新聞05年2・28、3・4付
 厚労省『労働経済白書』04年度版
 角倉貴史『NEET人口の将来予測とマクロ経済への影響』第一生命経済研究所04・10・21
所報『佛心伝心』第3号より
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『立正安国論』概略



 日蓮聖人が鎌倉で法華経を広める為 辻説法を行っていたころ、地震や暴風雨がつづいて飢饉や疫病がひろがったため、たくさんの人が生活に苦しんだ末に 死んでしまいました。

 「国が乱れ 災害が起こり 人々が苦しむのは、法華経を信じないで まちがった教えが広まり信仰されているからだ」と考えられた日蓮聖人は、静岡県にある実相寺に三年間こもり、経典を読まれました。その結果、御自分の考えが正しいという確信を得、有名な『立正安国論』という論文をあらわされ、時の幕府にさし出して いさめられました。日蓮聖人39歳の時でした。


 以下、『立正安国論』の概略を述べます。
 (『立正安国論』は、客が質問し 主人が答える という形をとっています。)

(客)
 正嘉元(1257)年のころから文応元(1260)年にいたる4ヶ年の間に 大地震や台風などの天変地異が続き、飢饉が起こり 疫病が流行して 災難が天下に満ち、広く地上に はびこっています。そのために 牛や馬は いたるところで死んでおり、骸骨は路上に散乱して目もあてられず、すでに大半の人びとが死に絶えて、この悲惨な状態を悲しまない者は一人もおりません。
 そこでこのような状況から逃れようとして、様々な神仏への祈りを行っています。しかしながら、いたずらに心を砕くだけで何の効果もなく、飢饉や疫病は ますます激しくなるばかりです。この うち続く天変地異によって、どうしてこの世はこんなに早く衰え、仏法も王法もその威力を失い、すたれてしまったのでしょうか。これはいったいどのような理由によって生じたのでしょうか。また、どのような誤りが原因となっているのでしょうか。

(主人)
 少しく経文をひもといて研究してみますと、この災難の原因は 世の中のすべての人びとが正しい教えに背いて悪法邪法に帰依したため、国を護る諸天善神はこの国を捨てて天上に去り、正法を広める聖人も去って帰ってこないから、その隙に乗じて悪魔や悪鬼が押し寄せてきて、次々に災難が起こるのである、ということがわかりました。

(客)
 それはいったいどのお経に説かれているのでしょうか。

(主人)
 それを証明する経文は非常に多くあります。(…以下諸経の説明をします…)

 この後、客と主人との様々な問答が 更に続きます。そして、最後に主人が結論を述べます。

(主人)
 あなたは、一刻も早く邪(よこしま)な信仰を捨てて、ただちに唯一真実の教えである法華経に帰依しなさい。そうするならば、この世界は そのまま仏の国となります。仏の国は 決して衰えることはありません。十方の世界は そのまま浄土となります。浄土は 決して破壊されることはありません。国が衰えることなく 世界が破壊されなければ、わが身は安全であり、心は平和でありましよう。
 この言葉は真実であります。信じなければなりません。嵩(あがめ)なければなりません。

 以上が概略です。最後の結論部分が、一番大事なところですので、よく読んで下さい。
寺報『石蕗(つわぶき)』第7号より
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お題目とは何か



 1253年4月28日早朝、日蓮聖人は千葉県小湊の清澄山旭が森に立ち、今しも太平洋上から昇りくる日輪に向かって「南無妙法蓮華経」と最初のお題目を唱えられました。
 今回は、お題目とは何かについて 簡単に説明いたします。

 法華経がお釈迦様の最高の教えであると確信された日蓮聖人は、その教えを体得し 成仏への道を歩むには、何よりも「南無妙法蓮華経」とお題目をお唱えすることが大切である、と説かれました。

 「南無」とは、サンスクリット語(古代インドの言葉)の「ナマス」の音を漢字にあてたもので「帰命」と訳します。その意味は、心からのまことを捧げ 絶対の信仰を持つ、ということです。
 「妙法蓮華経」とは、お釈迦様の教えである法華経のことです。
 従って、「南無妙法蓮華経」と唱えることは、お釈迦様の教えである妙法蓮華経(法華経)に絶対の信をささげ、この教えをもとに成仏への道を歩みます、という誓いなのです。

 お題目の内には法華経全体が収められております。これをお唱えすることは、法華経全体にふれたことになります。

 お題目をお唱えすると、功徳をいただくことができます。それは日蓮聖人の次のような教えによります。
 「お釈迦様の御修行の徳のすべてと、おさとりの徳のすべては、妙法蓮華経という五字の中に備わっている。だから、我々がこの妙法蓮華経を信じ唱えることによって、お釈迦様がつまれた功徳をゆずり与えられ、仏になることができる。」


 正しいお題目の唱え方

 お題目はロで唱えるだけでなく、行動をともなうことが大切です。それは
  1. 思いやりの心で
  2. 相手のことを考えた言葉で
  3. よい行い、人助けをする
ということです。


 お題目を唱え、この世を仏の心で過ごしましょう。
寺報『石蕗(つわぶき)』第6号より
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法華経について



 お釈迦様は多くの教えを説かれました。それは全て口頭でなされた為、弟子達は暗記して伝えてきました。後に弟子達が集まって教えをまとめ、文書としてあらわしました。これを「お経」と言います。
 お経は声に出して唱えるもの、という認識のみの方が 多いと思います。確かに唱えることは第一に大事なことですが、第二に そこに説かれている教えを学ぶことも大事なことと言えます。

 お釈迦様の教えは多くのお経として伝えられていますが、80年の御生涯で最後に説かれたのが 法華経と涅槃経です。
 この法華経において、お釈迦様の真意がはじめて説かれました。法華経の教えはインドの霊鷲山の山上で説かれ、シルクロードを通って中国を経て、日本へ伝わってきました。

 それでは法華経とはどんなお経なのでしょうか。

1.お釈迦様の全ての教えを統一してあらわしたものであり、全ての仏様を統一する本仏(釈迦牟尼仏)を説き示し、又、仏様の教えを信仰し 実践する理想的な人格者(菩薩)を明確に示し、仏教を体系的に統一する経典です。

2.この経典は28章からなっていますが、次の二つの大事な教えを中心として成り立っています。

○ 第一の教え…「すべての人は、仏になれる。」

 法華経以前のお経では、仏様が人々を救うという教えはあるが、仏になれるということはありませんでした。法華経に至り、人々は本仏(釈迦牟尼仏)の教えを信仰し 実践することにより自身が仏になれる、と示されました。
 これはどのような意味をもつのかと言いますと、四苦八苦のある世界で暮らしていくに当って、その苦を軽くする為には自身が仏になる(仏の境地になる)ことしかない、仏の心にならなければ苦に対処する心ができない、ということにあります。仏にならずして、ただ救いのみをお願いしているだけでは本当の抜苦(苦しみからのがれる)にはならず、常に苦にあうこととなります。又、他に対する思いやりの心も生まれません。
 従って、この第一の教えは、法華経の教えを修めて仏となれば苦をのがれ、又、他とも仲よく暮らしてゆける、ということを示しています。

○ 第二の教え…「本仏(釈迦牟尼仏)は、始めのない過去より 終りのない未来にわたって ここに住し、いつも人々を仏にしようとされている。」

 仏教ではいろいろな仏様が説かれていますが、法華経において全ての仏様を統一する本仏としての釈迦牟尼仏が示されました。そして私達をいつも仏にしようとされているのです。このことは私達が信仰し実践することにより、本仏から仏にさせて頂くことができるということです。
 本仏の助けによりこの場で仏になることができることの意味は、大変大きいと言えます。安らぎを別の世界に求めては何もなりません。

 従って、以上の二点を常に念頭において、法華経の教えを信仰することが大事なことと言えます。そうすることによって本仏(釈迦牟尼仏)が、私達のそばに現れ、仏になる為(仏心を持つ為)の手助けをしてくださるのです。 

寺報『石蕗(つわぶき)』第5号より
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今を大切に



 私達は毎日、人生には限りがあるということを忘れて生活していないでしょうか。今日できなければ明日、明日できなければ明後日やればよい、という気持になり、いつのまにか時間だけが過ぎ去ってしまっている、ということが多いのではないでしょうか。

 人それぞれ人生の過ごし方は違いますが、「限り」を意識した人生と、意識していない人生では大きな違いがでてきます。
 意識しないでいる人は、自分の時間が永久に続くように思っていますから、今の時間を大切にしません。その結果、中味の濃い充実した人生を送ることができません。
 逆に限りを意識している人はどうで しょうか。例えば百才まで生きると仮定して、百からあなたの年令を引いてみて下さい。残りの年数がこれから生きられる時間となります。このように考える時、一日一日と人生の時間が短かくなってゆくことに気がつき、今をムダに過ごせないという気持になってきます。
 更に、過ぎ去った時間は完度と戻ってこないのだということにも気がつきます。そこから今の一分一秒を大切に過ごすようになり、中味の濃い人生を送ることができるようになります。

 「一日一生」という教えがあります。「自分の一生は今日一日だけである」という考え方です。明日があるとは考えませんから、今日一日を一所懸命に過ごすこととなります。
 そして翌朝、目がさめることができたならば、その日一日がまた一生なんだと考えて一生懸命に過ごすことができます。

 このように考える時、今の一秒が貴重に思えてきませんか。思えてきた時から充実した人生が始まります。
寺報『石蕗(つわぶき)』第4号より
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お釈迦様がさとられた内容



 お釈迦様は人々が受けている
(1)生きてゆく為の諸々の苦しみ
(2)老いてゆく苦しみ
(3)病気にかかる苦しみ
(4)死の苦しみ
などから いかにしたら救われるかを きわめる為に、修行に入られました。そして35歳の12月8日にさとりを得られました。

 その内容とは
(あ)地球上の一切のものは移り変り、永遠不滅のものはなく よって起こっている。
これを「縁起」という。
※一粒の種子をまけば必ず美しい花が咲くとはかぎらない。土壌や日光、雨、肥料という種々の条件がそろわなければ美しい花は咲かない。この条件を縁という。従って万物は全て互いに縁となって、それらのつながりによって存在しているものである。
(い)人間は縁によって生死の苦をくり返している存在である。
(う)いかにしたら生死の苦から逃げれることができるか。
それには、真理に無知で全てを自分本意にしか考えない執着する迷った心を、除かなければならない。
(え)苦の原因である迷った心を除くには八つの正しい道の修行が必要である。

八つの正しい道とは…
  1. 正しい見解
  2. 正しい決意
  3. 正しい言葉
  4. 正しい行為
  5. 正しい生活
  6. 正しい努力
  7. 正しい思想
  8. 正しい瞑想
であるが要約するならば

● 正しくものを見て考えること。
私たちは自分に都合のよいような色メガネでものを見ようとするから、正しく見ることができない。まず我執、我欲のメガネをはずして見る、考えることが必要である
● 正しい規範に基づく生活をすること
● 心を整えること
といえる。

 このようにさとられたお釈迦様は、この修行の実践方法を種々の経典を通して私達に教えておられます。
寺報『石蕗(つわぶき)』第3号より
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日蓮聖人の生涯



1.お誕生
 後鳥羽・土御門・順徳の三上皇が配流された「承久の乱」の翌年、貞応元(1222)年2月16日に千葉県の小湊で漁夫の子としてお生まれになりました。今の誕生寺の近くです。父の名を貫名重忠といい、母の名を梅菊といいます。善日麿と名づけられました。

2.出家・修学
 11才になられた時、近くの清澄寺に登り道善房を師として勉学に励まれました。
 16才で出家名を是聖房蓮長とあらためられ、一層仏教の研鑽に努められました。清澄寺にある仏教書を全て学ばれた蓮長は、真の仏教を更に深く研究する為、鎌倉の諸大寺、比叡山、三井寺、奈良の諸大寺、高野山など当時の仏教研究の殿堂を歴訪し、血のにじむような努力を32才まで続けられました。
 比叡山にて勉学されたところが横川の定光院で、現在日蓮宗が護持しています。

3.立教開宗
 十数年にわたる真の仏教研究の結果、お釈迦様の真意が説かれているお経は「法華経」であると確信されました。そして『法華経を、この汚れ乱れた世の中に生かし、弘めよ。たとえ身命を失うことがあろうと法華経を説け』と戒められたお釈迦様のお言葉を実行することこそ自分の使命である、と決意されました。
 この決意をもとに清澄寺へ戻られた蓮長は建長5(1253)年4月28日早朝、旭が森の山上にて東方水平線より昇りくる旭に向かって法華経を弘めるという強い意志のもと『南無妙法蓮華経』の第一声を発せられると共に、清澄寺の人々に法華経信仰の正しさを高く宣言されました。日蓮宗の始まりです。時に32才でした。
 法華経信仰の正しさを宣言された蓮長は、ここで名を日蓮と改められました。「日」とは日、月の光りが暗闇をのぞくように、末法に法華経を弘める上行菩薩がよくこの汚れた世の暗闇をのぞく、というお釈迦様のお言葉から、「蓮」は汚れた沼の中にあって汚れることなく清浄な花を咲かせる蓮華のように、上行菩薩が法華経を弘めるというお釈迦様のお言葉からそれぞれとられました。

4,法華経を弘める活動と受難
 法華経を弘めるべく鎌倉におもむかれた日蓮聖人は、松葉ヶ谷という所に庵をむすび、活動を始めました。鎌倉の街々で「辻説法」を行い、諸宗を批判され、法華経の精神を弘められました。その結果、弟子や信徒がしだいに増えていきました。しかし批判をされた諸宗の人々及び北条氏の恨みをかい、数々の難にあうこととなります。
 庵を焼討ちされたり、伊豆に流罪されたり、小松原にて殺されそうになったり、竜ノロで首を切られそうなったりしました。そして最後は佐渡配流の身となられました。この時50才でした。
 文永8(1271)年10月10日依智(神奈川県厚木市)を発ち、12日をかけて寺泊へ着かれ、一週間滞在された後、佐渡へ渡られました。寺泊で滞在された所が法福寺祖師堂(石川宇右ェ門邸跡)です。

5.身延山入山
 文永11(1274)年、日蓮聖人は流罪をゆるされ、鎌倉へ戻られました。鎌倉で再び幕府に万事法華経によることの必要性を進言しましたが、入れられませんでした。そのため故事に倣い、身延山に入りました。そこで弟子の教育、信徒の教化に励み、法華経信仰に生きるうえでの指導を行われました。
 しかし、湿気の多い身延の沢での生活はしだいに日蓮聖人の健康を蝕んでゆきました。弘安5(1282)年に入ると、一段と病勢が悪化した為、ついに九ヶ年過ごした身延をあとにして「常陸の湯」へと病気回復の為向かわれました。

6.御入滅
 常陸の湯への途中、信徒である東京池上の池上宗仲公の邸に立寄られた日蓮聖人は再起が困難であることを悟られ、弟子達への最後の講義を行うとともに後事を託しました。
 そしてついに弘安5(1282)年10月13日午前8時、61才の生涯を閉じられました。
 池上の地にて茶毘に付された御遺骨は、弟子達によって身延山に埋葬されました。今の御廟所です。日蓮聖人の御遺言に『墓をば身延山に立てさせ給へ。未来際までも心は身延山に住むべく候』と述べられています。
寺報『石蕗(つわぶき)』第2号より
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お釈迦様の生涯



1.お誕生
 今から約1,500年前のインド、ヒマラヤ山の麓にカピラいう釈迦族の小さな王国がありました。王様を『浄飯王』といい、王妃を『摩耶夫人』といいました。この二人の間に生まれたのがお釈迦様です。生まれた所はルンビニー(現ネパール国)という花園でした。摩耶夫人はお釈迦様(シッダルタ)をお生みになった後、まもなく亡くなられ、摩耶夫人の妹がシッダルタを育てられました。浄飯王は、母のいないシッダルタを心配し、何不自由のない王宮生活となるよう心をくばりました。しかし、シッダルタは物質的快楽では心が満たされない為、物静かに思いめぐらすことをしだいに好むようになっていきました。

2.出家
 やがてシッダルタは、学問武芸ともに勝れた若者に成長。隣国の王女ヤショーダラ姫と結婚し、ラーフラという男の子が誕生しました。しかし、この幸せな状況の中にいても、シッダルタの心は晴れませんでした。
 ある時、家来を連れて王宮の東の門から外に出ると、年老いて衰えはてた老人に出会いました。次の日南の門から外出して病人に出会い、さらにその次の日西の門から外出して死人を運ぶ行列に出会い、だんだんと暗い気持ちになっていきました。
 そして4日目に北の門から外出した時、出家した修行僧に出会いました。この修行僧の姿に心を動かされ、「生・老・病・死」という人生の根本的な苦しみを解決する為、出家する決意を固めました。
 満月の夜、眠っている妃と息子に密かに別れを告げ、城を出ました。そして郊外の森に入り修行を始めました。この時シッダルタは29歳でした。

3.成道
 出家したシッダルタは森の中で断食をしたり、イバラの床に伏したり、薪を積んだ炎で身をあぶったり、呼吸を止めるなどの厳しい修行に励みました。こうした修行により手足は細くなり、背骨はうきあがり、肋骨は突き出し、瞳は深く落ちくぼんでしまいました。
 しかし、この修行からは悩みを解決する正い悟りを得ることが出来ませんでした。そこで苦行に対する疑問を持ち、6年間の苦行を止めて山をおりました。山を下り尼連禅河で身を清めた後、村娘スジャータから乳粥をもらい、体力の回復をはかりました。
 その後、近くの丘の上にある大きな菩提樹の木の下で瞑想に入りました。一心に人生の苦しみについて考え、7日目の12月8日の暁に至り、ついに悟りを得られました。時に35歳でした。この時から「お釈迦様」〔釈迦牟尼仏〕と呼ばれるようになりました。

4.初転法輪
 悟りを開かれたお釈迦様は、人生の真理をまず最初にかつて一緒に苦行に励んだ五人の仲間に説きました。教えを聞いた五人は直ちにお釈迦様の弟子となりまし。この最初の説法を「初転法輪」といいます。
 教えが広まるにつれて弟子も増え、お寺が建てられるようになりました。竹林精舎や祇園精舎が有名です。

5.涅槃
 お釈迦様は、この悟りを一人でも多くの人々に伝えるべく、45年間インド中を歩かれて教えを説かれました。
 80歳の時、旅の途中で病気になられ、クシナガラという村のサーラ樹の下でお休みになられました。病気はしだいに重くなり、ついに2月15日の夜、生涯を閉じられました。最後に弟子達に向かって次のように説かれました。
 『おのおの自らを灯火とし、自らをよりどころとせよ。他を頼りとしてはならない。私の教えを灯火とし、よりどころとせよ。他の教えをよりどころとしてはならない』。と…。
寺報『石蕗(つわぶき)』創刊号より
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