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佛様のよろこび、日蓮聖人のねがい

…震災…

 早いもので、もう11日経ちました。そう、震災です。東北関東大震災とか東日本大震災とよばれています。
 みなさんは、あの日、どこにいらっしゃいましたか。私は、お寺にいました。大分長い間揺れていて不安になりましたが、震度はせいぜい2くらいです。近隣の方曰く「最初、自分がめまいがしているのかと思った」とか。それくらいしか揺れませんでした。地盤の違いでしょうか。昔から、「寺泊のハマは揺れない」と言われているとか。

 東日本全体に大なり小なり被害があったわけですが、私の友だちも、色々な体験をしました。
 普段乗らない電車にたまたま乗ったところで地震に遭い、一晩足止めを食らった方。
 ディズニーランドに勤める友人ですが、出勤時間がたまたま普段より遅く、「さて、そろそろ家を出るか」というところ=家で地震にあった方。御承知の通り、ディズニーランドは駐車場が液状化し、最寄り駅を走る電車が不通になり、お客さんも従業員の方も、そこで夜を明かしたわけですが、そうならずに済んだそうです。

 阪神淡路大震災や中越(沖)地震のとき、発生から10日経った頃は復旧・復興の雰囲気だったように思います。ところが、今回は、未だそのきざしが見えません。何とも言えない不安感というか心が安まらない日々が続いて居るように思いますが、如何でしょうか。


…日蓮聖人の『立正安国論』…

 さて、このような不安な状況というのは、なにも今に始まったわけではないのは、論をまたないかと。
 日蓮聖人が『立正安国論』をお書きになられた直接の動機に、このような状況がありました(『安国論奥書』)。幕府に奏進する3年前、正嘉元(1257)年8月23日、御歳36のこと。
 相模湾を震源とする推定マグニチュード7.0の地震が発生し、鎌倉で寺院や神社に大被害が出たそうです。数千とも数万とも言われる被災者、あちことで地割れや噴水、山崩れが起こったとか(『国史大辞典』(吉川弘文館))。
 災いはそれにとどまらず、その後も毎年のように大風、飢饉、疫病が起こります(『安国論御勘由来』)。
 現在既に不安があるというのに、この後に毎年のように災害が来たらどうでしょう。不安は増大します。心の安まるひまがありません。
 そんな状況がどうして起こるのか、その原因と対策を探るべく、日蓮聖人は、たくさんのお経に目を通されました。その結果をまとめ「間違った信仰をやめ、正しい妙法蓮華経へ帰依しなさい」という主張を、幕府へ示したのが『立正安国論』であります。ここのところは、昨年のお会式で御前様が御法話致しましたので、覚えている方もいらっしゃるかと。

 そのため、『立正安国論』の書き出しは…もともとは漢文なので意訳になりますが…「旅人が来て嘆いていう。近い正嘉元年(1257)のころから今年文応元年(1260)にいたる四箇年の間に、大地震や大風などの天変地異が続き、飢饉が起こり、疫病が流行して、災難が天下に満ち、広く地上にはびこっています。そのために牛や馬はいたるところで死んでおり、骸骨は路上に散乱して目もあてられず、すでに大半の人びとが死に絶えて、この悲惨な状態を悲しまない者は一人もおりません。(『日蓮聖人全集』春秋社)」となっているのです。
 なお、「旅人が来て嘆いていう。」というのは、主人とお客さんの会話調で書かれているからです。

 普段ですとなかなかわかりにくいかも知れませんが、こうして震災を目の当たりにしている今だからこそ、当時の不安感や、それを何とかして解消したい、人々に心安らかに過ごしてもらいたい、という日蓮聖人のお気持ちが、理解しやすいのではないでしょうか。

 ちなみに、この『立正安国論』を幕府は表面上では無視します。が、「間違った教え」と指摘された念仏宗の方々は黙っていられません。もちろん、幕府内にも念仏信者はおりました。

 立正安国論』を奏進した文応元(1260)年7月16日の約一ヶ月後、8月27日に、お住まい=松葉谷草庵=を襲撃されたり、その翌年、弘長元年(1261)5月12日、幕府によって逮捕され、伊豆の伊東へ流されたりしたのは、御承知の通りです。
(当日は、ここで時間となり終了)


…歌題目…

 本日もお唱え致しました歌題目にも、これらのことが歌われております。

十五、松葉谷の焼き討ちに 猿の知らせに御難免る
  松葉ヶ谷に草庵があった。焼き討ちに会うが、白い猿に導かれて裏山づたいに逃げ、難を逃れる。

十六、難なく逃れ山王の 社に響く経の御声
  逃げた先の山頂に山王権現があった。

十七、伊豆の伊東に流されて 流されながらも国土安穏
  松葉ヶ谷法難の一年あまり後、「国の悪口を言う」罪で、伊豆伊東に流される。

十八、したう涙を払うても 右手折られて嘆く日朗
  伊豆へ船で流罪。同道を役人に懇願する日朗上人。船にすがっていた右腕に、櫓が振り下ろされ右手を折られる。

十九、此経難持の声高く 低き調子も波のまにまに
 流される船に乗って、此経難持…と唱えられた聖人。波にただよって聞こえ、調子が独特だったとか。

二十、やがて隠るる離れ島 岩の上にぞ祖師はすてられ
  相模湾がしけていて、役人船酔い。伊東まで送ってもらえなかった。潮が満ちると水没するまな板岩に置き去りにされた。

 その後、鎌倉龍ノ口にて斬首されるところが中止され、当地寺泊を経て佐渡へ行かれたのは、これらが起きた10年後、御歳50のことです。


…此経難持…

 先ほどもお参りでお唱え致しましたお経ですが、漢文そのままで唱えることを真読、読み下して唱えることを訓読といいます。方便品での「爾時世尊…」お自我偈での「自我得仏来…」が真読、欲令衆での「諸佛世尊は衆生をして…」が訓読です。これを踏まえて、以降お聞き下さい。

 さて、いつもお題目の後にお唱えします「此経難持」。たった今も話題となりましたが、「見宝塔品第十一」の終わり部分の一節であります。

 ちなみに、見宝塔品の冒頭には、「爾時宝塔中。出大音声。歎言善哉善哉。釈迦牟尼世尊。能以平等大慧。教菩薩法。仏所護念。妙法華経。為大衆説。如是如是。釈迦牟尼世尊。如所説者。皆是真実。」とあります。…なんだか聞いたことありませんか?そう、欲令衆の終わり部分の真読です。欲令衆は「欲令衆生 開佛知見…」から始まる方便品の一節など、法華経の複数の部分から抜き出したお経を訓読したものなのです。

 話しを戻します。 「此経難持」から「皆応供養」まで、若干の解説を加えながら、訓読致します。

「此の経は持(たも)ち難(がた)し 若し暫くも持(たも)つ者は 我即ち歓喜す 諸佛も亦(また)然(しか)なり 是(かく)の如(ごと)きの人は 諸佛の歎(ほ)めたもう所なり 是(こ)れ則ち勇猛なり 是(こ)れ則ち精進なり 是(こ)れを戒を持(たも)ち 頭陀(づだ)を行ずる者と名(なづ)く 即ち為(こ)れ疾(と)く 無上の佛道を得たり 能(よ)く来世に於(おい)て 此の経を読み持(たも)たんは 是(こ)れ真の佛子(ぶっし) 淳善(じゅんぜん)の地に住(じゅう)するなり 佛の滅度の後に 能(よ)く其(そ)の義を解(げ)せんは 是(こ)れ諸(もろもろ)の天・人 世間の眼(まなこ)なり 恐畏(くい)の世に於(おい)て 能(よ)く須臾(しゅゆ)も説かんは 一切の天・人 皆(みな)供養すべし」

「受持し難い…どれくらい受持し難いか、ちょっと前に例が書いてある。
 人がガンジス川の砂の数ほど経典を解き明かす、
 人が須弥山(しゅみせん、宇宙の中心をなす広大な山)をとって放り投げる、
 人がこの世界を足の指一本で振動させ蹴り飛ばす、
 大地の要素すべてを足の爪の上に置いて梵天の世界へ行く、
 人が火の中に枯れ草を背負って入っても焼けない(火=世界が破滅する時の火)
などはとても簡単なことで、これらよりも法華経を受持することは難しい…だけど、此の経を一瞬でも受持する人は、お釈迦様が喜ぶことをしているのである。 その人は、諸佛によって賞賛され、誇りある英雄であり、また速やかに覚りを得るだろう。 その人は、(衣食住についてのむさぼりや欲望を捨てて清らかに修行に励む)頭陀行を実践する人であり、佛の子であって、心を調伏した境地(淳善地)に到達している。 佛が入滅した後に、此の経を説き示すならば、その人は神々や人間に伴われた世界において眼を生じた者となる。 佛が入滅した後に、一瞬でも此の経を説き示す人は、あらゆる人にとって賢者であり、賞賛されるべきである。」

 佛様のよろこびと日蓮聖人のねがいを励みとし、日々の精進をお願い申し上げます。
平成23(2011)年春季彼岸会法話より

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