法福寺トップページへ
To top

日蓮宗法福寺TOP > 教え





お釈迦様の教え、日蓮聖人の教え(2006年)

お会式法話要旨
秋季彼岸会法話要旨

日蓮宗新潟県西部宗務所所報『佛心伝心』のシリーズ「法の燈」より、副住職が担当した文章を若干書き換えたもの
第7号:「地獄、浄土はどこ?」

教え(2006年以前)



信心の相続を



 このたび子供が生まれました(会場から拍手)。いままで「後継ぎ」「後継ぎ」とちやほやされていたのに、すっかりその注目が奪われてしまいました。弟や妹が生まれ、親御さんや祖父母の愛情を一身に受けていたものを奪われた兄姉の気持ちがよくわかりました(笑)。

  さて、今日のお会式。そもそもは、日蓮聖人を偲び、亡くなられた10月13日前後に行われるのが一般的です。法福寺では、日蓮聖人が佐渡に発たれた日、10月27日にいままで行っておりましたが、お休みの日の方がお参りしやすいだろうと、今年から11月第2日曜日にした次第です。
 なお、11月27日午後1時半より祖師堂でのお会式法要がありますので、そちらも是非お参り下さい。


 ところで、みなさんは「死んだものが生き返ることはありますか」と聞かれたらなんと答えますか。
(約半分程度の方が「その通り=生き返る」と答える)
 これは、誠に意地悪な質問でした。どういう状態が死なのか、どういうことを生き返るというかはっきりさせていないからです。
 目の前の人を包丁で刺し、殺してしまえば…もう生き返ることはありません。しかし…

 死に関する研究、教育をされている大学教授がいらっしゃいます。彼は小中高校生に「一度死んだ生き物が生き返ることがあると思うか?」というアンケートをとりました。それによると、中学生約400人の半分弱、小中高校生約2000人のうち5人に1人が「生き返る」もしくは「生き返ることがある」と思っているそうです。
 別の大学教授が「死んだ人は決して生き返らないですか?」というアンケートをとったところ、小中学生約2700人のうち5人に1人が「いいえ」つまり「生き返る」と答えました。
 ある県の教育委員会でも「死んだ人が生き返ると思うか?」というアンケートをとりました。それによると、その県下児童生徒のうち約3000人のうち6人に1人が「はい」と答えたそうです。

 いずれのアンケートも、「生き返る」と思っている割合が、小学校高学年で一旦減るのですが、中学生になると増えます。これを「中学生になると一度理解した『死』の概念が揺らいでしまう傾向がある」とか「予想外の結果」と分析しています。
 確かに医学的には「死んだ人は生き返らない」が正解です。たまに「生き返った」という話を聞きますが、それを医学では「死んでいなかった」という分類に入れるからです。

 また、先ほどの教授の講義を受けた主婦が自分の子供に死の怖さについて語ったところ、小1の次男が「(死んだら)もう一度やり直せばいいんだよ。スタートボタンを押して。(そのボタンは)心臓です!ハイ、スタート」と叫んだそうです。
 大学教授や教育委員会の方々の危惧はもっともで、命について時間を費やして教える必要を痛感致します。「死」について教育しないと大変なことになる、との主張はうなずけます。命はたいせつなもので、奪ってしまったら元には戻せないのだ、ということは充分理解させる必要があることでしょう。

 しかし、ここで疑問に思うことは、どのアンケートも「生まれ変わる」と考える子供を考慮していないことです。県教委の生徒回答には「死んでも心の中に生きていると思う」「人の魂は死んでいないと思う」という意見がありました。
 調査した大人たちは、「生まれ変わり」を信じず、信じる子供をも問題視しているように感じます。さきほどのお二人の教授を紹介した記事を書いた某雑誌記者は、生まれ変わりを否定的にとらえています。
 記者は、中学生の半数、小中校生の2割が「生き返る」または「生き返ることもある」と思っていることに対し、「信じられない数字だ」と書きました。

 あの世があるのか、魂が存在するのか、「わからない」というところが百歩譲ったところです。信じない人に対し彼らが言うであろう「学術的な」証明はしようがないからです。ただ、我々少なくとも日蓮宗の信徒、広く言えば日本のほとんどの仏教の信者は、その存在を信じているわけです。

 話しを戻しますが、このように、信心を持たないことを当然と思い、むしろ宗教を持つことを否定的に捉え、相手の心をおもんぱかろうとしない人が、大学教授や教育関係者、記者といったいわゆる知識層に平然と存在するのが現状です。このような状態でいいのでしょうか。
 もちろん、そういう人ばかりではなく、知識層=信心を持たない、という等式は間違いでしょうが。


 某新聞社の世論調査では、4人に3人が「宗教を大切だと思わない」と答えますが、「神仏にすがりたい」と思う人は過半数にのぼります。
 某飲料メーカーの調査によると、「精神的な充足が幸せに不可欠」とする人が多くいるのですが、ほとんどの人は、宗教にそれを求めません。
 50代後半の主婦は、その投書で「葬式でお布施や戒名料をたくさんとられ、借金をする羽目になった。自分の時は、既存の価値観にとらわれずに送ってもらいたい」と主張します。遺族が納得の出来る説明をしない僧侶と、取り急ぎ形を求める遺族。日常の関わりがなく、また相互理解がないのが原因なのではないでしょうか。
 多くの大人には、すでに信心が相続されていません。


 ぜひ、みなさんにはお子さん、おまごさんへの信心の相続をおねがいしたいのです。
 …また、できますれば、お寺との関係作りもお願いしたいのです。これは、法福寺に限ったことではなく、誠意あるお坊さんなら宗派を問わず誰しも「お檀家さんとの日常的な関係作りをしっかりしたい」と思っています。お葬式の時に初めて会う、お葬式の時しか呼ばれない、寺に来てくれない、というのは、それぞれ事情もあるでしょうが、なるべくならば避けたいのです。
 これは絶対に間違いありません。もし、よそのお寺のお檀家さんで「うちのお坊さんに『そんなのめんどくさい』と言われた」という方がいましたら、…そのお寺のお檀家さんをやめて、法福寺のお檀家さんになるよう、勧めて下さい(会場笑)。

 話しを戻しますが、いまからでも決して遅くはありません。ある調査によると「お金よりも大事なものがありますか」という質問に8割の子は「そう思う」と答えています。その気持ちのまま信心を持った大人になれば、精神的にも充足した、他人の気持ちをわかる立派な人になるでしょう。


 先ほどお唱えしました日蓮聖人のお言葉「此御本尊も只信心の二字にをさまれり」にもあるように、信心が大切なのです。

 信心を持って、日々過ごすことが大事なのです。

 それによって法華経の譬諭品第三に書かれている「今此の三界は 皆是我有なり。其の中の衆生は 悉く是れ吾が子こなり 而も今此の処は 諸の患難多し 唯我一人のみ 能く救護をなす」…この世界は仏様に守られていて、我々はすべて仏様の子である…ことが理解頂けるはずです。


 どうか、御自身の信心をお子さん…特に「ほとけごと、おてらごとは、おじいちゃん、おばあちゃんの役目と思っているお子さん…やお孫さんに相続して下さいますよう、お願い申し上げます。
平成18(2006)年お会式法話より
このページの一番上へ


心の洗剤、お題目



 例年に比べ、10日ほど稲刈りが遅れているとか。雨降りでもそうですが、あまり天気が良すぎても(稲刈りやお出かけやらで)、お参りに来られる方の数に影響が出るようです。
 そういった意味で、今日はお参りが少ないかと思いましたが、予想に反して、大勢おいで下さっているようです。お参りの方が一人しかいらっしゃらないと見つめ合って話さなければなりませんが、今日はそうしないで すみそうです(一同笑)。

 人というのは、半年くらいしか誓いが持たないそうです。お彼岸が春秋2回あるのも、そういったことが関係しているのかも知れません。

 心をきれいにし、心新たに生活することを仏様に誓う日が、お彼岸の中日なのです。

 数年前より、お彼岸の法要の際は、お経をみなさんで唱えてもらうようにしました。共に唱えるということに意味があるのです。だまってお経を聞いていると、苦痛に感じたり眠くなったりする人もいます。人任せだからそうなるのです。自分も一緒になって唱えますと、参加意識が出て、「ああ、お参りして良かったな」という気持ちになります。お参りする前は、家でのイライラを持ち込んでいますが、お参りし、お題目やお経を唱えると、心が和んできます。
…この境地まで至ってない、という方は、どうぞ時間がありますので、このあともたっぷりとお参りしていって下さい(一同笑)…。
そんな心持ちでお参り頂くとよろしいかと思います。

 世の中、暗いニュースばかりで、なかなか明るい話題を聞きません。
 しかし先日、女子高生の次のような投稿を見つけました。
「ゆとりのない母親、常識のない母親が増えているように思う。やたら怒る、バスや電車の座席に靴を履かせたままの小さい子を立たせる、子供が騒いでも注意しない、携帯電話に夢中で子供のことを忘れる。親が子を無視していれば、そのゆとりのなさを先の時代に引き継ぐ悪循環が起きるかも知れない。そんな母親が増えれば、愛情知らず、限度知らずの子供が増え、少年犯罪が激増するのではないか。子供のよい手本となる母親が増えて欲しい」(要旨)。
こう思う女子高生がいて、安堵しました。
 私も、子供のすぐそばで たばこを吸う母親を見かけました。子供に対する配慮があるならば、せめて子供のそばでは吸わない方が良いのではないでしょうか。
 そういう母親が増えていますが、周りは注意しません。見て見ぬふりをするわけです。ただ、中には「具体的にどうして良いのかわからない」という方もいらっしゃいます。
・勇気を持って注意する
・せめて自分の子や孫にはしっかり教える
ということが大切なのです。

 地球温暖化と言われていますが、ある試算に拠りますと、90年後
…「90年後」と聞いて、「ああ私は生きてないから関係ない」と思われた方はおりませんか(一同笑)。あなたのお孫さんなど子孫の時代なのです…
には、
・二酸化炭素が今の倍
・梅雨が長引き、明けるのは8月
・九州を中心に降水量が2割は増える
そうです。
 ここ最近、台風が増え早い時期に来るようになりました。大雨も増えました。梅雨明けも遅くなっています。90年後の温暖化が今始まっているともいえるのではないでしょうか。
 日々気をつけなければならないことです。

 私の話はよく「堅い」と言われます。それに比べて角田山のお話しは面白いと好評です(一同笑)。角田山の話しは6月(開山会)にお願いするとして、その前後を私が話すわけですが、全て覚えて頂く必要はありません。大事なことだけお持ち帰り頂ければいいのです。それは、
・この世界は、安閑としていられる世界ではなく
・ひとにまかせず
・自分が行動する
ということです。それを踏まえてよりよい世の中にしていかれると良いのではないでしょうか。

 その実践のために 心を強くする源が お題目です。

 『立正安国、お題目結縁運動』というものを宗門が進めております。簡単に言うと、「一人一人が 人のためになることを勧め、暮らしやすい世の中にしていこう。お題目を知らない人に、お題目を唱えると心やすくなる事を伝えよう。」ということです。

 よく「お題目を唱えたときのメリットは何ですか」と聞かれます。それは、
・心が落ち着く
・他人の幸せを願えるようになる
ということです。
 「病気が治る」とか「金儲けができる」とか言われますが、正確ではありません。例えば、商売をしている人が、人の幸せを願えるような心を持っているとしたら、そこには人が集まり、結果としてお金も集まるということなのです。ただ座してお題目を唱えていても、お金は入ってきません。

 「手や顔の汚れを落とすことはあれども、心の垢を落とすこと難し」と昔から言われています。今日は、心の垢を落とす日なのです。
…だからといって、ただ胸をこすっても赤くなるだけですが(一同笑)…
それに使う洗剤がお題目なのです。
 胸に手を当ててお題目を唱えてみて下さい。お題目を唱えると、心が洗われ、すっきりした気持ちになります。このときに垢が落ちていることを自覚して下さい。これを繰り返すことで たくさんの垢が落ちていくのです。そして、これがお題目の功徳なのです。ぜひ、自宅に帰られたら心を洗って下さい。
 御自身の心が洗われたら、今度は御主人又は奥さんにも勧めて下さい。胸に手を当てて唱えるわけですが、御主人または奥さんの胸を触って
…「いまさら何しゃんだ」と言われるかも知れないので、自分で触るよう言っても良いですが(一同笑)…
お題目を唱えるよう勧めて下さい。
 ほとんどの方は、人の心をすっきりさせる方法を知らないのです。だから、お酒やたばこに頼ってしまうのです。

 次にお話しすることは、以前お話ししたことがあるので御存知の方もいらっしゃるかも知れません。

 私たちがお経を読む時は、
・「自我得仏来」と漢文そのまま読む場合…真読といいます…と、
・「我れ仏を得てよりこのかた」と読み下す場合…訓読といいます…
があります。
 お釈迦様はインドの言葉でお説きになられましたが、それを 今 私たちが目にしている漢文に翻訳したのが鳩摩羅什(くまらじゅう、クマーラジーバ)という方です。
 鳩摩羅什が翻訳した法華経も インドの言葉で説かれた法華経と同じで、その一文字一文字に功徳があるとされています。この功徳を頂戴するために真読するのです。
 とは言え、音を聞いているだけでは意味がわかりません。意味をわかりやすくするために訓読するのです。
 いずれにせよ、その功徳を自分のものにせず、来世にいらっしゃる御先祖様に手向けるのが「回向」であり、これが法事をする意味なのです。「昔からやっているから」法事をするのはないのです。

 朝のおまいりもそうです。これには、
・今日一日よろしくお願いします、
・お唱えしたお経の功徳を来世の御先祖様へ手向けます
という意味があります。
 そう聞くと、毎朝お参りすることの大切だ、という気になったのではないでしょうか。お参りの しだめ は出来ないのです。「今日1時間したら今週はいいや」という気持ちではダメなのです。毎日…ちょっとでも良いので…お参りすることに意味があるのです。

 先ほどとお読みしましたお経に「今此の三界は皆これ我が有なり。其の中の衆生は悉くこれ我が子なり」とありました。
 この世の人々は皆仏様の子なのです。それに気付くと、功徳をもらい仏様の教えを信じて生きやすくなります。

 日蓮聖人は「蔵(くら)の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。」と仰っております。
 蔵の財、お金のことです。確かにお金も大事です。お金がないと生活出来ません。でも、お金があっても病気していたらどうでしょうか。
 さらには、お金があっても元気であっても、「自分が、自分が」と自己中心的で人の迷惑を顧みない、つまり、心の財がなかったら、どうでしょうか。とても心やすく生活することは出来ません。
 「金があれば何でも…」という人がいますが、心の財がなければ、…打算的な、金目当ての人は寄ってくるでしょうが…心から話せる人は寄ってきません。人と人とのまじわりから得られる本当の楽しみは、心の財がないと得られないのです。
 だから、心の財が大切なのです。

 自分のお墓はきれいにしたとき、ふと見ると、小さなゴミが一つ残っていました。それを、つまんでそっと隣のお墓にやってしまう人がいました(一同笑)。こういう人は心が曇っているのです。
 法福寺のお墓は風が強いのです…みなさん御存知しょう…が、10年ほど前、こういうことがありました。
 その時も風が強く、ろうそくに火を付けるためにこすったマッチが10本ほどになってしまいました。そのマッチ、どうするのかと思って見ていたら、隣のお墓の見えにくい所へ…(一同笑)。こういうことをしてしまった人は、心が曇っていると思って欲しいです。

 次はお願いです。
 お墓にお供物を上げられる…上げることは、誠に結構なのですが…上げっぱなしの方がいます。その時は良いかもしれませんが、あとから烏などが食い散らかし、とても見栄が悪くなります。おまいり後にお持ち帰り頂くか、さもなければ翌日にでも取りに来て頂きたいのです。
 お墓は御先祖様の家です。思いやりの心を持って接して頂きたいです。その思いやりの心を持つためにも、お題目は大事です。

 全てはお題目に通じます。洗剤、汚れをふくもの、自分を良くする薬なのです。聞くだけではだめです。自分で唱えてこそ、自分のものになるのです。
 これを御理解頂ければ、今日お参り頂いた意味があるのです。

 最後に、ますますの御精進をお願いしまして、お彼岸の法話とさせて頂きます。長時間の聴聞御苦労様でした。
平成18(2006)年秋季彼岸会法話より
このページの一番上へ


地獄、浄土はどこ?



 法華経には次のような記述があります。
「我此土安穏 天人常充満」(お自我偈)
…我が此の土(この世)は安穏であり、常に天人や人々で満ちあふれている…。一方、
「三界は安きこと無し、猶火宅の如し、衆苦充満して、甚だ怖畏すべし」(欲令衆)
…輪廻する世界では(心が)安まることがない。火事になった家の中のようである。人々の苦しみで満ちあふれていて、非常に恐ろしい(状態である)…。
このように、一見すると相反することが書かれています。どういうことなのでしょうか?

 こういう時は日蓮聖人に伺うのが一番です。
 日蓮聖人が残された文章には
「浄土と云ひ穢土と云も土に二の隔なし。只我等が心の善悪によると見えたり。」とあります。
 地獄や浄土というのは、場所のことではありません。そこにいる人の心持ちのことなのです。悪い心を持っている人たちは地獄に、善い心を持っている人たちは浄土にいるのです。
 どうか、みなさまが浄土に住み続けられますように…。
所報『佛心伝心』第7号より
このページの一番上へ
ひとつ前の教え(2006年以前)