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お釈迦様の教え、日蓮聖人の教え(2013年)

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佛様の国



 先日、山古志へウォーキングに行ってきました。山坂のあるところですが、住んでいる方々はそれに対して不満も感じていないようです。また、地元のお子さん達も素直で、とても清々しい気持ちでした。
 かつてインドに行ったときのことです。夕食時、ある貧しいお宅では、かまどを大勢の家族が囲んで、食事ができあがるのを待っていました。私たち日本人から見ると懐かしく、かつては日本中どこででも見られた風景ですが、いまではすっかり見られなくなったようです。
 さらに、佛の国と呼ばれるブータン。国民の多くが国王を尊敬し慕っており、みな国王のバッチを胸につけています。東日本大震災の際、多くの義援金を頂戴しました。経済的に裕福かと思いましたが、実際はそうでもないようです。山に囲まれ、隣町に行くにはその山を越えていかなければならないような状況です。そんな厳しい状況でも納得して幸せに暮らしております。お土産屋さんに行きますと、日本を含めた他国ですとすぐに店員さんが寄ってきてあれこれ薦めますが、この国では違いました。無欲とはこのような状態を言うのでしょう。
 私たちも見ならう必要がありましょう。
 インドのガンジス川。沐浴しているすぐ脇で火葬をしています。生きている人も死んだ人も一体となっている、それがガンジス川です。自然と一体になっているということは、佛様の国と言えましょう。ここに私たちが生きるヒントがあるのではないでしょうか。

 文明社会では全てが便利です。ところが、便利故に幸せ…すなわち佛様の国…か、と問われると、どうやらそうでもないようです。

 京セラや第二電電を創業した稲盛和夫さんは、「『働く』ということはどういうことか、考えなさい」と問われました。すなわち、「生活のため」もしくは「お金を稼ぐため」以外に『働く』ことに対して意義を見出しなさい、ということです。その答は、「自分自身の精神を磨くこと」だと稲盛さんと仰っています。ただ食べるためだけに働くと、楽して儲けたいと考え、労働無くして稼ごうと思うからです。それでは人間性は磨けません。
 一つの仕事を一心に成し遂げた方…例えば宮大工さんなど…は、佛教を学ばずとも通ずるものがあります。一心に働くということは、佛の道に通じるのです。
 『やき場とたんぼ』という相田みつをさんの詩があります。人の本質を知り、少しでも人のためにいいことをする、日々を真剣に取り組み自分を高める。そうすると、不平不満のない佛様の国にいると感じて生きていかれるのです。
 日蓮聖人は、「法華経修行の者の所住の処を浄土と思うべし」(『守護国家論』)と仰っております。秋のお彼岸中日の今日、先ほどみなさんと一緒に法華経とお題目をお唱えしました。その場が、浄土=佛様の国=なんだと日蓮聖人は仰ったのです。浄土を他に求めても、そこには存在しないのです。法華経とお題目をお唱えするみなさんがいらっしゃるところが浄土なのです。

 みなさんの穏やかなる心持ちが長く続くことを願い、本日の法話とさせて頂きます。
平成25(2013)年秋季彼岸会法話より
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法華経のありがたさ…そのうちのほんの一つ…

(今回は、当日お話しした内容に比べ、一部省略や変更があります。)



 ○○さんというキリスト教信者がおります。(中略)彼は、自身のサイト(中略)で次のように述べています。(引用省略)
 …と言った具合です。お寺の本堂で、聖書の一節を読んでもいいか迷いましたが…(苦笑)。なかなか佛教徒としては「どきっ」とするようなことが書いてあります。「ほんとかいな」と疑りたくなります。結論から申しますと、「本当…(間)…ただし、正確ではない」となります。

 正直、私はこのホームページを見て、
「婦女子は今日に至るまで五種の地位を得たことはない」
「佛国土に(中略)婦女子はいない」
これらのことがお経…しかも法華経…に書いてあると初めて知りました。詳細がわからなので、思い切って、○○氏に問い合わせました。ありがたいことにわずか5時間後に回答を頂きました。彼が言うとおり、確かに法華経にそう、書いてありました。わからなかったのは私自身の不勉強によるものですから、そこは反省し、良い機会を与えて下さった、○○氏には感謝致しております。

 はたして、彼の主張は正しいのでしょうか。

 「女性は、梵天王になることはできない。帝釈天になることはできない。魔王になることはできない。転輪聖王になることはできない。そして仏になることはできない」。
どこかで聞いたことありますでしょうか。そう、提婆達多品第十二の一節です。ここのちょっと前に
「婦女子は今日に至るまで五種の地位を得たことはない」
もありました(岩波文庫『法華経』中巻P.223)。

 ここでの主な登場人物…と申せばいいでしょうか…は、文殊菩薩、龍女、智積菩薩、舎利弗です。お釈迦様も登場はするのですが、一言もお言葉は発しません。他にも数千という人々がいるのですがお釈迦様同様、セリフはありません。

 話しは、提婆達多品の途中、文殊菩薩が「私は海の中で多くの人々に法華経を説いてきた」と仰ったことへの智積菩薩の質問から、になります。なお、言葉は、私の意訳です。

智積菩薩「この経典を崇め尊び、さとりに達した者はいるのですか」
文殊菩薩「はい、います。龍の王様の娘で、年は8歳。瞑想を一瞬で達成し、彼女は完全なさとりを得る能力を持っています」
この回答を聞いて、智積菩薩が言います。
智積菩薩「お釈迦様がさとりをお開きになられたとき、とても長い時間がかかった。龍王の娘が一瞬で悟れた、など到底信じられない」
そこに、当の娘が登場し、こう言います。
龍王の娘「私は、さとりを達成した。苦悩から逃れられる教えを、示しましょう」
それに、舎利弗が反論します。
舎利弗「良家の娘よ、あなたが、さとりに近づこうと努力していても、それはなかなか得られるものではない。女性が、いくら努力しても、今日までにだれも佛になっていない。それはなぜか。女性が、梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王、佛の地位を得たものがいないからだ。」

 今までいなかったからこれまでもいないとは限らないのですが、まぁ、ここではそういう論調で、女性を差別しております。また、漢文ですと、「女性の身は汚れていて、佛のありがたい教えが入る器ではない」とも書いてあります。とても無茶苦茶な話しですが、もうみなさまお気づきでしょう。

  そう、○○氏が根拠にしたところは、舎利弗のセリフなのです。「シャカは言いました。」とありますが、それは間違いなのです。とは申せ、お釈迦様が舎利弗の言ったことを支持すれば、結果は同じです。

 ですが、この後、龍王の娘は、ほんの一瞬の間に、男性となり、さとりを得て、人々に教えを説きます。その様子を見て、智積菩薩と舎利弗は、沈黙します。
…ぐうの音も出なかった、のです。

 つまり、舎利弗の主張は間違いであり、そのことに、智積菩薩も舎利弗も納得したのです。法華経の、この部分の教えは、「女性差別は間違っている」ということなのです。

(中略)

 早速の回答を頂いたのち、このことを指摘しましたが、残念ながら、今朝現在、先ほど申したホームページが書き換わっている様子はありません。私の意見にも返事は頂けませんでした。ただ、他の方の質問には懇切に答えてられるむきもありますので、決して誠意のない方だとは思いません。信じるものはちがっても信仰を持つ者同士として、一目置きたいと思っております。問題は、○○氏ではなく、○○氏の主張なのですから。

 話しを戻します。確かに、七面山は、かつては女人禁制で、それを解いたのが徳川家康側室の養珠院お萬の方だ、と言う話しは有名です。歴史的には、日蓮宗に限らず、日本の佛教でも女性を布教の対象としてこなかった面もあります(もちろん、そうじゃない面もあります)。「女人は地獄の使なり。能く佛の種子を絶つ。外面は菩薩に似て内心は夜叉の如し」というお経もあるそうそうです。

 残念ながら、女性を差別する経典も存在するようですが、法華経は違います。「佛教VSキリスト教」という区分けだと、話しがややこしくなってしまうところは、この辺りが原因なようです。

 ではありますが、むしろ、日蓮聖人のみならず、道元さんや法然さん親鸞さんなども女人禁制には批判的でした。
 特に、日蓮聖人は、法華経が他のお経より優れている理由の一つに、この女人成佛があるからこそ、とされたくらいです。

 先ほど拝読致しました、日蓮聖人の御文書『開目抄』には、「龍女が成佛此れ一人にはあらず、一切の女人の成佛をあらはす」(定五八九頁)とおおせです。龍女だけがたまたま成佛したのではなく、女性ならば誰でも成佛することができるのだ、と仰っているのです。


 さて、ここまでお話し申し上げて、まだなにか引っかかるものがある方もいらっしゃるかと存じます。

 そう、「男性になって」というところです。

 佛教を研究する人の間でも分かれるところですが、簡単に言うと、「『変成男子』が先か『成佛』先か」という話しです。

 私は、成佛→変成男子だと確信しております。確かに、経典後半部分は「変成男子→成佛」です。しかし、変成男子のずっと前、そもそもを思い出して下さい。文殊菩薩が龍女を紹介したのは、智積菩薩の「誰か、悟りを開いた方はいらっしゃいますか」という質問へ答えるためでした。すなわち、「成佛していて、その神通力を用いて、男性に変身した」と考える方が、自然です。

 では、「なぜ男子に変身したか」という疑問がわくでしょう。

 みなさんがもし龍女なら、「女性は成佛できない」と頑なに主張する舎利弗を、どう説得しますか。言葉でしょうか。
 龍女のように、佛の神通力を以て、男子に変身してしまえば、「男だから」とか「女だから」とか言うことが如何に無意味か、伝えやすいのではないでしょうか。

 このお経から私たちが学びたいことは、「男女の区別はあっても差別はしてはならない」ですが、同時に、「人を説得させようとしたら、相手のことをよく考えて、相手の立場に立ってするのが、一番」と言うことではないでしょうか。

 …最も、私はそれができないから、先ほどの○○氏に対応してもらえないのですが…。

(以下略)

参考文献など
坂本幸男・岩本裕訳『法華経(中)』岩波書店、1964、ISBN 4-00-333042-0
植木雅俊訳『法華経(下)』岩波書店、2008、ISBN 978-4-00-024763-4
ウィキペディア女人禁制(新しいウィンドウで開きます)(2013年3月18日アクセス)
平成25(2013)年春季彼岸会法話より
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